平瀬作五郎のイチョウ精子発見は、明治になって日本が再び世界に門戸を開いての最初の大発見であるが、その実態は意外に知られていないことはかねがね気になっていたことである。それは、1996年9月9日には東京大学附属植物園でイチョウ精子発見100年記念の会と国際シンポジウムが開催されたが、私はその折の責任者であったので、平瀬の事績を追ってみて痛感した。また、110年目に当たる2006年9月9日に開かれた日本植物学会大会(東京理科大学野田キャンパス)でのシンポジウムでは「イチョウ精子発見」についての講演を行ったので、そこでは私の感想を加えた。そして、求めに応じてJPR和文誌に1896年に当時の植物学雑誌に投稿された平瀬論文の概要とその周辺状況についての簡単な記事を寄せたが、事実関係に絞り、詳細は後報に委ねると述べた。
それから、時間も経過しているので、私はそのように述べたことも失念しており、JPR編集室から連絡があって初めて思い出した次第である。平瀬作五郎の業績を再確認することは重要であり、大方には知られていない事実も多くあるのでここに改めて紹介しようと思うが、そのポイントは三点ほどに絞りたい。1)世界的視野から見たイチョウ精子発見の意義、2)なぜ、平瀬作五郎が東京大学で働くようになったか?3)なぜ、平瀬は発見後まもなくに東大を去ったか?
1) イチョウ精子発見の意義
イチョウ精子発見の意義は当時の世界的状況から見ていく必要がある。発見前後の国内の状況は先に述べたとおりであるが、世界的状況はヨーロッパの学者の動向から見ることができる。実は、発見に先立つこと50年程前にホフマイスター(W. Hofmeister)は、「裸子植物も一様ではなく、中には花粉管の中に精子が形成するものがあるかもしれない」と述べている(1)。ホフマイスターは「植物の世代交代」を明らかにした人で、彼が明らかにしたことは今日の植物発生学のどの教科書にも載っていることであり、重要な概念を提出した人である。そのような人の予言には重みがある。その予言の受け止め方はさまざまであろうが、証明したいと思った人が少なからずいただろうと想像される。ここで、我々のすべきことは、巷間の通説を紹介することではないと信ずるので、平瀬らの論文という一次情報から追跡することとした。
i) シュトラスブルガー
平瀬の論文(2)にはシュトラスブルガー(E. Strasburger)の論文(3)が盛んに引用されている。シュトラスブルガーとは、当時最も著名な植物細胞学者で、ボン大学教授であった。研究対象は、広範な生物であり、むしろ一般細胞学者と呼ぶべきであろう。当時彼が著した大学向けの植物学教科書(Lehrbuch der Botanik)は改定され続け、今日なお刊行されおり、最近私はその第35版を購入した。シュトラスブルガーの論文を探すために、生物科学科図書室の司書の方を煩わせた。見つかったのであるが、その状況たるや少し常態ではなかった。今や閲覧する人もないので、当時は現在のように整備されていなかった埃だらけの理学部二号館大講堂の一隅に、整理中の他書籍と一緒に積み上げられた中にあった。装丁がボロボロで、綴じもバラバラになりそうで、ひょっとしたら廃棄されるのではと心配される状況であった。刊行は1892年と平瀬の発見の4年前で、本自体は初代植物園長となった松村任三教授がハイデルベルクで購入し、後に大学図書室へ寄贈したものと分かった。ページを繰ってみて、実に興味ある事実が判明した。この本には至る所に、薄い色鉛筆でアンダーラインがあるのである。その箇所は多くがイチョウやソテツの受精に関するところであった。大部の論文で、ロシアのベリャーエフ(W.J. Belajef) がセイヨウイチイ(Taxus baccata)の受精を明らかにしたことにより、裸子植物の受精が示されるようになり、それは当時のいわばホットな話題であった。シュトラスブルガーも多くの裸子植物でそれを調べて確認したというのが論文全体の内容であり、その結論である。その関連でイチョウやソテツの受精も調べていたのであるが、これはホフマイスターとの関わりで見るべきであろう。しかも、イチョウについては、興味あることに6-9月の間に、隔週にギンナンをウィーン大学の植物園から送ってもらっていたのである。送り主はヴェットスタイン(Richard von Wettstein)で、当時ウィーン大学教授で、植物園長でもあった。それを用いてシュトラスブルガーはイチョウの花粉が雌の木に達してそこで発達していく様子を図に描いているのである。しかしながら、もちろん精子の発見には至らなかった。ここで、平瀬が学士院恩賜賞を受けた際の挨拶で述べたことを思い起こす必要があろう。彼は、「池野博士は木登りが下手であったが、自分は子供のころから得意であったので容易に大イチョウよりギンナンを取ることができた」と述べ、また、「シュトラスブルガーは西洋剃刀でギンナンを薄く切ったが、自分にはそれはできないので、慣れ親しんでいる日本剃刀を良く砥いで、薄く切ることを試みたが、それが成功の要因であった」と述べている(4)。シュトラスブルガーのイチョウ花粉の発達の図示は平瀬にもヒントになったと想像できるが、同時に彼の工夫があったことが成功の鍵であったろう。
さて、この時点で、私が更に疑問に思ったのは何故ウィーンから入手しなければならなかったかである。というのも、ウィーンとボンとは500kmの距離を隔てているからである。また、その木は現在もあるかである。
なお、ヴェットスタインの孫に当たるディーター(Diter von Wettstein) とそのお姉さんウダ(Udda Lindquist)とは、個人的付き合いがある。ディーターは優れた遺伝学者であり、ウダは年輩であるが、オオムギの育種をスウェーデンで行っている活発なご婦人である。
ii) ウィーン大学付属植物園のイチョウ
2004年秋にはEMBOメンバーの会でウィ-ンへ行く用事があったので、会議終了後上記の疑問を明らかにすべく植物園を訪問して調査を行った。まず、驚いたことにそのイチョウは雄の木であったことである。ただし少し複雑で、雄の木に雌の木の枝を接ぎ木したもので、その枝にギンナンがなったのである。この話は、イチョウがヨーロッパにもたらされて以来の歴史も反映していることが明らかになった。すなわち、オランダ東インド会社の医師であったドイツ人ケンペル(E. Kaempfer)が1692年に日本からオランダへ帰る際に持ち帰ったものであり、イチョウの学名の下になったGinkgoを与えたのも彼である。Ginkgoという名前は、ケンペルが誤って付けたという流説があるが、それは誤りであることは他で指摘した。ここでは直接には関係ないので、そちらを参照されたい(5)。イチョウは、珍奇な植物ということでヨーロッパに広まった。それらの話題の一つとして、ゲーテとの関わりは大変興味があるが、それも別に述べている(6)ので、それらを参照していただくとして、先へ進む。この間にジュネーブのデカンドール(A.P de Candole)により、イチョウに雌雄があることが発見されたが、実は良く成長してギンナンをつけるイチョウはほとんど知られていなかったということである。そこで、当時の人が考えたことは、ひょっとしたら根にその理由があるかもしれないということで、雌の枝を雄に接いだのである。この試みを行ったのは、1800年ころで、ジャッキン(Nikolaus von Jacquin)である。ジャッキンは、マリア・テレジア(Maria Theresia)の夫君フランツ・ステファン(Franz Stephan)皇帝によりオランダから招聘されて、植物園を作った人であり、シェーンブルン宮殿に西インド諸島より珍奇な植物をもたらした。その彼が雄のイチョウに接木した雌の枝にたわわに実をつけたのであり、それゆえシュトラスブルガーはウィーンからギンナンを入手したのである。その後、徐々にギンナンをならせるイチョウは増えていったとのことである。そして、そのイチョウはウィーン大学植物学教室のすぐ裏手にあり、当時は植物園長の公舎の隣であった(写真)。現存していることは分かったが、残念なことに、接木された雌の枝は第二次大戦中の戦災で失われ、雄の木のみ残っている。ただし、別に雄のイチョウに雌の枝を接木されたものが作られ、それは園内で見ることができる。なお、ジャッキンは、モーツアルトとも親交があったので、彼の生誕250年の記念のセレモニーがこのイチョウの前において行われたとは、案内してくださったキーン(M. Kiehn)博士より約一年後に知らされた。
従って、平瀬の業績は、ヨーロッパの著名な学者の追跡でも判明しなかったことを示したことで、しかもその時期は日本が世界に門戸を開き、東京大学発足19年目という、諸学問をなお導入していた時期で、いわばキャッチアップの時代に先駆的且オリジナルな業績を示したという点で重要である。発表当初欧米の人には容易に信じられなかったということはこのような背景から十分理解できよう。ただし、上記の次第で、多少日本での研究が有利であったのは、ギンナンの入手が容易であったことである。ただし、精子ができるといっても9月の第一週頃でほんの一日という点であるという点では極めて難しいことを示したともいえる。そこで、木登りの得意な平瀬は、大イチョウからギンナンをとり、日本剃刀で薄くそいで、発見に至ったのであろう。我々も精子発見から100年目に植物園の職員の協力でギンナンを集め、精子の観察では経験のある筑波大学宮村新一博士の助力を得て、部屋中ギンナンの悪臭を漂わせて精子を見ることができたが、決して容易ではなかった。
2) 平瀬がなぜ東大へ来たか
平瀬作五郎の東京大学へ来る前の任地は、岐阜県中学校の図画教師であり、同時に兼務で岐阜県農学校の教師も行っていた。彼は、もともと福井県生まれで、藩校で勉学し、岐阜県に教員として赴任していた。その技量は傑出しており、当時教科書も出版している。その彼が、東京大学へ来るようになったきっかけは当時の植物学教室の人脈から推定できる。それを少し紹介すると、初代植物学教授矢田部良吉は、明治3年に最初の外交官として赴任した森有礼とともに米国へ行き、コーネル大学へ入学した。そこを卒業して帰国し、東京開成学校教授となり、東京大学ができるときとともに最初の植物学教授となった。実は、最初にアメリカ行きの声を掛けられたのは高橋是清であるが、彼はそれ以前に在米の経験があるからといって、代わりに矢田部を推薦してこれが実現したのである。これらの顛末は、高橋是清自伝に譲ることとして(7)、ここではこれ以上立ち入らない。そのときもう一人アメリカ行きの同行者がおり、それは内藤誠太郎である。内藤は、アマースト農科大学で学び、帰国後は札幌農学校の教授となったが、その時点では堀誠太郎と名乗っていた。クラーク博士が学長であった大学であり、クラーク博士を日本へ招聘した当事者である。ところが、長州の奇兵隊の隊長も経験していたという堀は、気骨があり、当時強引なことが珍しくなかった開拓使で長官黒田清隆と衝突して、農学校は辞職し、最初大学予備門(後の第一高等学校)の主事となった(この過程は実は複雑であるが、かなり細かいことであるので省略する)。ところが、明治14年当時、各地に騒動が起こり、堀は文部省から依頼されて、予備門での職はそのままに岐阜県農学校の騒動の鎮静役として赴任し、その職は校長であった。そこで、堀は平瀬と会ったのである。かねがね画は不得手ということで、画工を欲していた矢田部の意を汲んで堀が平瀬を誘ったのであろう。ただし、最初の職は画工であったので、前職の給与の三割減であったということである。当時画工がいたことは、加藤竹斎をはじめとして植物園に多く残る絵から知ることができる。ところが、研究熱心で器用な平瀬は技手を経て、助手となり、研究に従事したのである。ちなみに、堀誠太郎は後に中井誠太郎となったが、それは旧姓に戻ったとのことであり、そのご子息が中井猛之進教授である。中井教授はこのような経緯で、岐阜県で生まれた。この件に関して、堀誠太郎が予備門の学生に愛されたという記録があることは、廃刊になった「自然」の元編集長岡部昭彦氏より教えられた。そこでの言葉を借りると、「東京帝国大学教授の中井は出世しているかもしれないが、その親爺には比べ物にならない云々」である。かくして、平瀬は東京へ出てきた。
3) 平瀬の辞任の顛末
平瀬は、イチョウ精子発見という世界的大発見の翌年に東京大学を辞職して、彦根中学校の教員として赴任している。これは上記の、矢田部良吉、中井誠太郎、平瀬作五郎の人脈が多分に関係しているというのが私の理解である。ただし、これらについては残念ながら一次情報はなく、得られた情報を繋ぎ合せて私が推測したことによっている。最初の植物学教室教授であった矢田部良吉は、新しい新知識をもたらし、日本で植物の同定ができるようになった状況を作ったという功績はあるが、一方では、兼職で国立科学博物館の前身の館長、東京女子師範学校、東京盲学校の校長なども務め、鹿鳴館へも出いりするという今日では考えられないような活動に手を染めている。また、新体詩運動にも関係している。たまたま気づいたことであるが、今日の一橋大学の前身に当たる東京商業学校が神田一橋に発足した折の校長ホイットニー(Whitnney)家には1880年頃にはかなり入り浸って、その娘クララからは鬱陶しがられている(8)。そして、最初の文部大臣となった森有礼の信任厚く、帝国大学創設にあたっては大いに働いたと推定されており、帝国大学理科大学の教頭も務めている(9)。しかしながら、動物学教授箕作佳吉らとの権力闘争に敗れて、非職となり、やがて免職となった。この顛末には、帝國大学を発足させ、明治の教育行政に大きく腕を振るった森有礼が暗殺されて帝国大学内の力関係が変わったため、矢田部の非職となったのであろうというのは、中野 実氏の推定であり、箕作と時の総長菊池大麓との連携であろうということである(9)。ちなみに、箕作と菊池とは実の兄弟である。その後、矢田部は東京高等師範学校の教授、後に校長になるが、そこでは英語教員であった。そして、49歳で江の島での海水浴中に亡くなった。これに関して、長年の朋友堀誠太郎は、矢田部に殉じてというより、大いに抗議して非職となり、山口県の農学校の教員になったが、その後は鬱々とした日々を過ごしたということである。また、この間に助教授大久保三郎も非職となっており、この関連で平瀬作五郎も退職したのであろうと推定される。これで矢田部の関係者は一掃ということになる。そして、平瀬は彦根中学校の教員になり、更にその後花園中学校へ移動し、南方熊楠との交流とわずかの論文発表が知られるのみで、表舞台に出ることはなかった。唯一の例外は池野成一郎とともに学士院恩賜賞を授与された時であった。従って、多くの俗説では学歴の故に大学を去らざるを得なかったと説明されているが、それは明確な根拠のないことである。
これで、この稿を閉じたいと思うが、実はやり残したことがある。それは、上記中野 実氏は東京大学史料室の助手であり、私も10年余に亘って史料室の委員を務めていたので、私の関心を知った中野氏は、私に矢田部良吉文書の所在を教えられた。詳しく調査の予定であったが、中野氏が病を得て急逝したため、三鷹禅林寺のご葬儀に出たのを最後に、そのままになっている。その後、私も委員を離れ、東京大学も退任し、多忙にかまけてその後の調査が疎かになっているが、いつかはその課題を果たしたいと思っている。
1) K.v. Geobel: Wilhelm Hofmeister, Akademische Verlagsgesellschaft mbH (1924)
2) Hirase, S.: J. Science College 12, 104-149 (1898)
3) Strasburger, E.: Histologische Beiträge IV, Gustav Fischer Verlag (1892)
4) 小野勇: 平瀬作五郎と恩賜賞、平瀬作五郎伝別冊 (1994)
5) 長田敏行: 百学連環、樺山紘一編、pp. 55-65 (2007)
6) 長田敏行: 小石川植物園ニュースレター15号 (1998)
7) 高橋是清自伝(中公文庫)
8) クララ・ホイットニーの日記(中公文庫)
9) 中野 実: 東京大学物語(吉川弘文館)
写真
ウィーン大学植物園の往時のイチョウ
提供: Archiv des Botanisches Instituts Wien, 撮影: Emmerich Zedebauer、Michael Kiehn 博士の厚意による
(文:法政大学生命科学部教授・東京大学名誉教授 長田敏行)