南方熊楠と真正粘菌

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 南方熊楠(1867-1941)は、世界的博物学者としてよく知られ、その八面六臂な活躍は伝説的なエピソードとして現在もなお語り継がれている。熊楠は明治維新直前の慶応3年に現在の和歌山市で生まれ、現在の東京大学を中退後、アメリカ時代を経て26歳の時にイギリスのロンドンに渡った。イギリスでは、英国博物館で主として博物学、民俗学に関する書物を筆写しながら研鑽を積み、1900年(明治33年)に帰国し、紀州の熊野山中で独自の世界観・生命観を求めて模索した。40歳近くになって紀州田辺町(現在の田辺市)に居を構えてから、それまでに培った驚異的な知識を基礎にして民俗学、宗教学関係の論文を発表するとともに、植物学に関する独自の研究を行った。これら多方面にわたる研究業績は英国科学専門誌「ネイチャー」などに多数掲載され、「日本にミナカタあり」といわれた。その一方で、政府の神社合祀令によって破壊されつつあった鎮守の森を守るために敢然と苛烈な反対運動を展開したことは、あまりにも有名である。今日、都市空間にわずかに残る森は唯一鎮守の森であり、環境保護の原点となる運動であった。

 熊楠が専門に研究した植物学の対象は、主として、淡水産藻類、菌類そして粘菌の3つである。当初は淡水産藻類の生きざまに強い興味を抱き、顕微鏡観察のための多数のプレパレートを作っている。また、菌類のキノコに関しても約3,500点に及ぶ彩色画を残しており、興味の強さを伺い知ることができる。しかし、熊楠の植物研究のなかにあって最も光り輝いたのは粘菌研究だといえよう。粘菌(真正粘菌と細胞性粘菌とに大別されるが、ここでは前者を指す)は、その生活環のなかで形態を変幻自在に変えるので「変形菌」と呼ばれたり、胞子を埃のように散布するので「ホコリカビ」と呼ばれたりする。このように名前に「菌」とか「カビ」とついているために、バクテリアや菌類のキノコあるいはカビと誤解されることがある。しかし、これらとは全く異なる生活様式をもっている。また、私たちがよく知るいわゆる動物とも植物とも異なる独特の生活様式をもつ。一見カビに似た子実体にはその先端に胞子のうが存在し、中に多数の胞子が形成される。胞子は適当な条件になると、細胞壁を破ってアメーバ状の細胞になって出てくる。その様子は菌類の胞子が発芽して菌糸を形成し、シダ類の胞子が発芽して原糸体を形成するのと全く異なって、むしろ動物的である。アメーバは周囲のバクテリアを食べて成長し、やがて2つに分裂する。このように、アメーバは成長と分裂を繰り返してその数を増やしてゆく。このアメーバは卵や精子のように顕著な形態的差異はないが、染色体が半数の半数体(n)で雌雄性を有する。雌性のアメーバと雄性のアメーバは接合(受精)し、染色体数が倍加して2倍体(2n)となる。その後の生活パターンは驚異的である。2倍体になったアメーバは周囲のバクテリア、単細胞藻類、カビなどの微生物を食べながら成長する。この際、細胞核やミトコンドリアの分裂は起るが、細胞質分裂が起らないため、非常に沢山の細胞核やミトコンドリアをもつ単一細胞としてどんどん巨大化してゆく。この巨大単一細胞は形を変えながら動き回るので「変形体」と呼ばれる。面白いことに、変形体は半数体のアメーバに遭遇するとそれを摂食し、2倍体のアメーバや変形体と遭遇するとそれらと融合し、いずれの場合も自らの巨大化に役立てている。1個の変形体が1平方メートルに及ぶことも稀ではなく、紛れもなくこの世で最大サイズの細胞だといえる。周囲のエサが不足して飢餓状態になると、生存戦略を一変させ、変形体のところどころに子実体を作り、そのなかでは減数分裂によって半数体細胞(物理化学的ストレスに強い胞子)が分化する。

 熊楠はこのような粘菌の一生、とりわけ一夜にしての動物(変形体)から植物(子実体)への変身に、生命の精妙さというか不可思議さに感じ入ったのではなかろうか。熊楠と粘菌との関係を論ずるにあたって、イギリス滞在当時からのリスター父娘との交流を紹介する必要がある。故アーサー・リスターは1894年に「粘菌モノグラフ」を著わし、彼の娘グリエルマ・リスターはその改訂版を二度にわたって1911年と1925年を刊行した。アーサー・リスターの基本的姿勢は、自然が示す多様性を考察するにあたって、微細な違いを重要視して種数を増やすのではなく、同一の種が内含する多様性の幅広さとして理解することを目指す、いわば統合指向の分類学であった。熊楠の説明によると、粘菌分類学へのアーサー・リスターの貢献は、同一種に個別に複数の学名(異名同種)が与えられているような混乱を、広範にわたる標本精査により整理したことにある。熊楠自身も、むやみに新種を探すことに価値を見出さず、"新種さがし"をむしろ軽蔑していたのである。彼の「新種ぎらい」の背後には、全体が見えているもののみが種として判別できるという彼のこだわりがある。つまり、「新種に限らずあらゆる種のあらゆる個体が種としてではなくその個性において関心の対象とすべきである」というのが熊楠の基本的姿勢であり、粘菌に関してはその全体像を知ることこそが、熊楠が目指す学問であった。これに関連して、アーサー・リスターへの書簡のなかで、熊楠は次にように述べている。「属--種--変種--異態という分類のレベルは、海面変化によって陸続きとなってはまた別れるような島々の関係に似ている。遠く隔たった属は、深い海底によって隔てられており、海面が相当低くなってもつながることはない。はっきり隔てられた属は、すでにはっきりしているので、今後そこに新たな発見がされる余地はそれほどないだろう。しかし、一つ一つの島に分け入っていけば、そこには広大な未知の世界が広がっている」。熊楠が、新種さがしを軽蔑し、生物の生き様そのもの、すなわち個体の形態変化(発生)を重んじた理由はここにある。ところが、皮肉なことに、アーサーの娘グリエルマは新種の記載を重んじる態度を示すようになり、これに対して熊楠は軽蔑に近い痛烈な批判を加えている。その背景には、粘菌は世界中に広く分布する普遍的な存在で、それほど多くの種は存在しないはずであるという確信めいたものがあったように思われる。事実、現在でも、粘菌は生物世界のなかにあって千種にも満たない生物群であるとされている。

 1917年8月、熊楠は田辺の自宅に生えていた柿の木の樹皮上にそれまで見たことがない粘菌を発見した。グリエルマ・リスターは彼から送られた粘菌を精査し、種よりも上のランクである属レベルでの新発見と認め、熊楠に一応の敬意を表して1921年にミナカテルラ(Minakatella)という属名を付けてイギリスの植物学雑誌(Journal of Botany)の第59巻に発表した。粘菌は、通常、落ち葉や腐った朽ち木の上で発生する。しかし、ミナカテルラのように生きた木の上で発生するというのは当時としては常識外であり、画期的な発見であった。グリエルマは熊楠からの報告をはじめ疑ったが、後に事実として認めた。それにしても、10年以上もリスター父娘と交流して粘菌に関する研究指導を受けた熊楠は、なぜ自ら発見した新種(属)の粘菌を自らの論文として公表しなかったのであろうか、少なくともリスターとの共同研究のかたちで発表しなかったのであろうか。不思議である。結局、熊楠は新種の粘菌を発見してもそれを正式に発表することは一切なかった。「新種さがし」嫌いの反映であろうか。熊楠は、植物学以外では思いついたことをすぐに筆にして論文にするところがあった。これとは対照的に、植物学に関しては、とりあえず論文として専門誌に少しずつ発表しようとはほとんど考えず、「粘菌図譜」、「日本菌譜」、「日本淡水藻譜」といった大著を企画していた。とはいえ、最近の調査によると、イギリスの有名な国際誌「ネイチャー」での論文数が日本人で最も多いのが熊楠であることが分かり、植物学関係でも10編に及ぶ。

 熊楠が日本における植物学の専門誌「植物学雑誌」(現在のJournal of Plant Research)に寄稿した論文には、3編の粘菌目録と、摂政宮(後の昭和天皇)に粘菌を献上した際の目録がある。論文の数としては非常に少ないが、上記のリスター父娘との学問上の交流や新属ミナカテルラの発見などもあって、専門家からは熊楠の専攻は一応粘菌だとみなされている。だが、熊楠の専門が粘菌とみなされるようになった最大の理由は、民間人としてはじめての昭和天皇への進講のテーマが粘菌であったことによるように思われる。

 熊楠は偉大なナチュラリストとして広く自然を愛した。彼の学問へのひたむきな情熱、希有の記憶力と洞察力、そして俗念をはなれた純粋性はいずれも現在において、また将来的にも学問研究に際して必要とされるきわめて大切な要素である。熊楠生物学の全貌、そのなかにあっての粘菌研究の位置づけなど、今後解明されるべき課題がまだ残っているが、熊楠が独特の感性で実践して得たさまざまな業績に、私たち日本人は素直に感謝し、大きな誇りを感じてもよいのではなかろうか。

(文: 東北大学名誉教授・前田靖男)

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