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池野成一郎のソテツ精子発見

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はじめに

 私は先に、イチョウ精子を発見した平瀬作五郎について、JPR編集室よりの要請により、その概略について述べた。平瀬について述べると、ソテツ精子発見者の池野成一郎についても述べざるを得ないというのがその時の感想であった。但し、平瀬と異なって、ソテツ精子発見の後も順調に学者としての階梯を上り、その業績は広く知られているので、その紹介は必ずしも私でなくてもよろしいのではと思ったが、再度JPR編集室より要請があったので本稿を寄稿することとした。なお、この際できるだけ新しい情報も盛り込むように努めた。

経歴

 池野成一郎(1866-1943)は東京駿河台生まれの江戸っ子で、正統的な高等教育を受けた人である。予備門、東京大学理学部、大学院を経て、駒場にあった東京帝国大学農科大学の講師として勤め、助教授、教授と進み、1912年にはソテツ精子発見により帝国学士院恩賜賞を受け、1913年には学士院会員に選出された。

 研究領域としては、当初は顕微鏡を駆使して、ソテツ精子発見をはじめ、細胞学研究を推進したが、当時の顕微鏡はアーク燈を用いていたため、発生する紫外線で眼を痛め、また酷使により視力を著しく損なった。このため、後に育種学、遺伝学方面へと転じ、日本遺伝学会の初代会長となり、研究推進ともに学問領域の発展に大きく貢献した。特に、『植物系統学』は名著といわれるが、メンデル遺伝学についても本格的に紹介した最初の書といわれる。私も古書店で求めて折に触れて利用するが、有用な記述と図には助けられている。

 さて、何か新しいことという見地からは、少し私の経験したエピソードを紹介する。あるとき彼の予備門時代の成績表に出くわした。東京大学には資料室という組織があり、私は10年余委員として所属した。そこは、古い文書の整理と保管を目的とする、いわゆるアーカイヴ(Archive)組織である。その2000年の表紙(第25号)には、1885年(明治17年)の東京大学予備門本校生徒の成績表が載っていた。その下級年にあって、池野の序列は18番であり、1番は地震学者となった大森房吉であった。その二年次では、1番は植物生理学者となった三好学、3番はグルタミンソーダの発見者池田菊苗であり、さらにその上級年には狩野亮吉がいる。池野がこういった錚々たるメンバーの一員であったことは、彼が大変な秀才であったと想像させる。なお、狩野は、のちに京都帝国大学が創立されたときの文科大学の学長となり、夏目漱石を迎えようとしたが、成功しなかった。

 当時大学での講義は英語であり、学生は就学前に英語教育は受けていたが、池野も予備門の前に東京英語学校を終えている。そして、英、独、仏語に堪能で、特にドイツ語に優れていたということである。このことは論文発表には重要な関わりを持ち、平瀬、池野も最初の短報は日本語で『植物学雑誌』へ発表したが、国際的にはドイツ植物学中央誌"Botanisches Centralblatt"へ独文で発表している。1897年に池野のソテツ精子発見の報が載り、次の号に平瀬のイチョウ精子発見の報が載った。また、詳細な本論文は、いずれも『東京帝国大学理学部紀要』("Journal of the College of Science, Tokyo Imperial University")に載ったが、平瀬のものは仏文であり、池野のものは独文であった。そして、その翌年、今日でも存在するイギリスの植物学領域の学術誌である"Annals of Botany"へは、平瀬・池野の両名で英文の論文を発表している。編集者よりの招待論文であった。これらの発表に池野が大きく関わっていることは良く知られている。

精子発見の顛末と役割

 1896年9月9日に、運動するイチョウ精子が平瀬作五郎により観察されたとき、傍らにいてその意義を直ちに理解して、それを発信したのは池野成一郎であるといわれている。池野自身は、ソテツの開花は夏で受精の時期は秋ということで、その年は二度にわたって鹿児島へ赴き、ソテツの精子を観察した。当時東京では十分成長したソテツが得られなかったからである。東京から鹿児島へは鉄道、船、人力車を乗り継いで行った。遠隔地ゆえ、試料を固定し、固定標本を東京へ持ち帰って精子と判断し、発表した。しかし、1896年以前にも何度か鹿児島を訪れており、その時からソテツに着目していたということである。

 ところで、ソテツの形態学的特徴は、シダと球果類の中間であるということは、それ以前より言われていたことである。ホフマイスター(W. Hofmeister)が、裸子植物の中に精子を作るものがあるかもしれないと言ったとき、それを想定したのはソテツ類であり、この意味ではより発見の難しそうなイチョウに先に精子が見つかり、ソテツの方が遅れたというのはある種歴史のいたずらというべきであろう。なお、『東京帝国大学理学部紀要』に書いた詳報の論文では、最初の観察は、固定資料であったが、後には運動するソテツの精子も観察したと述べている。

 さて、イチョウ、ソテツの精子が発表されても世界の学会は一瞬疑いの目を持って見ていた。1897年になってアメリカにおいて、ウェッバ-(H.R. Webber)が、ソテツに近縁のザミア(Zamia floridana)で精子を確認してから広く信じられるようになった。ソテツ類の精子は大型のものが多く、ザミアでは2㎜程度であり、ディオーン(Dioon)に至っては6㎜にも達し、肉眼で十分見えるということである。
 そして、鹿児島で池野が精子を観察したソテツの子孫は、小石川植物園に移植され、正門から入ってすぐ左手に植わっている。冬場は藁帽子をかぶるこのソテツは季節の風物詩となっている。

その他のエピソード

 遺伝学関係では、オオバコ属やヤナギ属において種間の交配を行い、形質の分配をみるという研究を行なっている。
 池野については、研究に対する姿勢に関して注目すべき点がある。オーストリアの著名な生物学者モーリシュ(H. Molisch)は、東北帝国大学理学部が創設されたときに招聘されたが、彼が農科大学を訪問した際に、池野は研究に集中しており、スタッフに対応を依頼したという。このように、池野は研究中心の生涯をすごしたと伝えられている。また、このラインで理解できるのは、彼は生涯、論文執筆は原則として単著であり、余人との共著の論文は2編のみであったということである。その内の一つは、先に触れた平瀬との共著の"Annals of Botany"からの招待論文で、もう一つは野口弥吉博士とのものであるとのことである。最近見掛けるようになった関係者がずらずらと並ぶものとは大いに異なる。また、実質を重んじた点としては、平瀬と共に第二回の帝国学士院恩賜賞を受けたのであるが、当初学士院は池野のみを候補者としたが、池野は「平瀬がもらえないのであれば自分ももらうわけにはいかない」ということで両名受賞となったとは、小野勇の『平瀬作五郎伝』の伝えることである。

 さて、上に述べたように、研究の上でもまた論文発表に関しても、池野は平瀬を大いに助けたが、もう一人助けられた人がおり、それは牧野富太郎である。牧野は東京大学植物学教室へ出入りしていたが、1890年に矢田部良吉より出入りを禁じられた。その牧野へ援助の手を差し伸べて、研究ができるよう取り計らったということである。後、牧野は帝国大学の助手として採用されたが、平瀬が助手に就任した時期とほぼ同時期である。そのため、牧野はセリ科エキサイゼリに学名として、Apodicarpum Ikenoi Makinoを呈じた。なお、牧野は、後に松村教授にも出入り禁止扱いを受けたが、やがて専任講師となり、1939年まで勤務している。

 ところで、名古屋大学理学部生物学教室の図書室に池野成一郎文庫があることは、私の短い名古屋大学在任中に気付いたことであるが、奥まった場所にありほとんど利用の形跡がなく埃をかぶっていた。それは、最後の帝国大学として発足した時点で、池野の蔵書が寄贈されたものであることは後に知った。平瀬のところで触れた『組織学論考』("Histologishe Beiträge")もそこに含まれていたが、丸善の納入書が見られるくらいで、書入れ等は見られないとは、私の研究室に籍を置き、最近名古屋大学勤務となったT氏に調べていただいたことである。

 ところで、本筋とは関係ないが、故木村陽二郎教授よりご教示いただいたことは、若年で亡くなられた池野夫人は松村任三博士の妹さんであったとのことであるが、その後のことまでは追跡していない。このように当時の学者はお互いが様々につながっていた。

 また、学術誌『日本植物学輯報』("Japanese Journal of Botany")発刊の中心であったことも忘れてはならないであろう。特に、戦中に、三木茂博士のメタセコイアの論文、今村駿一郎博士の気孔開閉にK+イオンが重要な働きを果たすという論文もここに登場した。

終わりに

 池野博士の経歴を追跡して、顕著な研究業績にも拘らず、それを誇るようなことはなく、成果の発表も淡々と行なっていることが印象的であった。また、周辺への配慮も一様ではないことが見て取れた。この他にも、池野博士の研究中心の姿勢、成果の発表に厳密さを伴わせていることには、改めて頭が下がる想いであった。ソテツ精子発見という世界的発見の背景はこのような研究姿勢が背景にあったと改めて認識した。

(文: 法政大学生命科学部・長田敏行)

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