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生物科学ニュース

ホーム > 一般向け情報 > 生物科学ニュース > 【キャリアアップへの招待】博士の専門性とフィロソフィーをビジネスに

【キャリアアップへの招待】博士の専門性とフィロソフィーをビジネスに

2016年2月23日

社会から望まれる理学博士!? ー意外にあるキャリアパス

博士の専門性とフィロソフィーをビジネスに

株式会社リバネス 代表取締役社長COO

髙橋 修一郎

 私は今、リバネスというベンチャー企業を経営している。現在は経営の現場にいるが、今でも科学を楽しみ、科学から学び続ける気持ちは変わらない。幼少から植物研究に明け暮れた大学院時代、そして現在までの軌跡を振り返ってみたい。

1.幼少のころ

 1977年に生まれ、茨城県水戸市で育った。私の家は父親が大手企業のエンジニア、母親が情報系の研究者だったので、子どものころから「科学」は身近な生活の中にあった。父親は真空管オーディオを設計するのが趣味で、家の屋根裏に衣装ケースに入った大量の真空管が保管されていたのを覚えている。その影響もあったのか、私は、小学生になるころからラジオやラジコンを組み立てたり、アマチュア無線の免許を取ったりと電子工作好きの少年になった。当時は特に車が好きだった。父親に、晴海で開催されていたころのモーターショーに連れていってもらって、手に入れたカタログを端から暗記した。

 両親はとにかく忙しくて、普段の生活の中でいつも一緒にいたという記憶はない。小学生のころは学校から帰宅しても両親とも仕事で家にはいなくて、2つ年上の姉が私の面倒を見てくれていた。食卓での会話は母親の研究の話になることが多くて、当時はさっぱり何を言っているのかわからなかった。でも、何だかよくわからない世界を楽しそうに語る研究者の姿に憧れた。いつか自分もあんな風に研究に没頭してみたい、幼心にそんな気持ちを持っていた。

2.植物の研究者を志す

 その母が大学を移ることになったのに合わせて、高校入学と同時に東京に引っ越した。高校時代、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』や『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』などの本を読み、生物学に興味を持った。それがきっかけで、DNAを自由に操る遺伝子工学を極めたいと考えて、1996年、東京工業大学の生命理工学部に進学した。

 研究者になるんだ、と思って入学したのだけれど、大学生活の自由な環境にすっかり気が抜けてしまって、学部生のころは何か自発的なチャレンジをすることはなかった。成績も決していいとはいえなかったし、課外の目立った活動もしなかった。講義よりも、所属していた茶道部の部室にいた時間の方が長いんじゃないかと思うくらいだ。飲食店でバイトをしながら、仲のよい友人たちと飲み会を開いているという普通の大学生。そのときに仲よくなった仲間のひとりが、今、リバネスで副社長CFOを務める池上昌弘だ。池上はまったくお酒を飲まないのだけど、当時私が住んでいた部屋によく集まっていた。

 池上とは同じ研究室に所属して、光合成に関するテーマで高宮建一郎先生、太田啓之先生(現・東京工業大学教授)にご指導をいただいた。研究室では本当に充実した日々を送ることができた。学部生のころは先輩方のディスカッションの多くは理解できなかったけれど、専門家たちの熱い議論に加わって学べる環境がとにかく心地よかった。世界を変える新しい発見をすることが、自分の人生をきっと充実したものにしてくれるだろう、そう信じてとにかく研究者になるんだと心に決めた。

 大学院からは、東京大学大学院新領域創成科学研究科に移って、難波成任教授のもとで植物病理学の研究を行った。

3.リバネスの設立

 東大に移った2001年の冬のある日、東工大時代に直接ご指導をいただいた助手の島田裕士さん(現・広島大学准教授)から連絡がきた。何の用事かと思い電話に出てみたところ、「最近、池上を見かけなかったか?」と聞く。池上は東工大の大学院にそのまま進学していたから、日常的に会うこともなく連絡も取りあっていなかった。聞けば、最近あまり研究室に顔を出さなくなったらしい。心配になって彼に連絡をしてみると、なんでも起業の準備をしていて忙しいのでなかなか研究室に行けないのだと言う。そして、新しい仲間を紹介するからぜひ今度おいでよ、と誘われた。その当時は研究にのめりこんでいたし、正直にいうと起業には興味がなかった。ただ、池上が何かとても楽しそうに話しているのを聞いて、1回のぞきに行ってみようと思って、2002年3月に神奈川サイエンスパークで行われた集まりに顔を出した。そこで初めて、今リバネスで共同代表をしている丸幸弘と出会った。私たちは、同い年で共に植物に関連した研究をしていたこともあり、すぐに意気投合した。2002年6月、大学院生15名が集まって有限会社リバネスを設立し、先端科学をわかりやすく伝える教育事業を開始した。

 余談だが、連絡をくれた島田さんは常々、「調子がよいときに成果を上げられるのは当たり前だ。調子が悪いときにどれだけ成果を上げられるかが人間の勝負だ」というようなことをおっしゃっていた。この言葉は今でも私の座右の銘のようになっている。逆境のときこそ力を発揮するのだぞ、と自分に言い聞かせている。

4.博士号取得とその後のラボ生活

 博士時代は日本学術振興会特別研究員に採択され、充実した環境の中、研究活動に没頭することができた。なかなか再現性が取れない実験に頭を抱えながら、苦手な英語で論文を投稿し、残り時間との戦いの中で眠れない日々を過ごした。夜な夜な、丸たちと集まっては実験データやら将来の夢やらがぐちゃぐちゃに混ざったような会話を繰り返した。深夜には、みんなで白山通りまで下りていって丸金ラーメンを食べに行ったのもよい思い出だ。ワクワクする未来と目の前の勝負。楽しいことも泣きたいことも同時にたくさん抱えながら、そのストレスをうまくいなしながら博士論文をまとめあげた。あのころの経験のすべてが血となり骨となって、今の自分の力になっている。

 2006年3月に、博士号を取得した。博士号取得は、折しも難波教授が新たに植物医科学研究室を立ち上げ東京大学の中で植物病院のプロジェクトをスタートするタイミングと重なった。このプロジェクトは、ずっと感じていた先端知と社会を繋ぐ研究をやりたいという自分の想いを実現するチャンスなのだと直感した。リバネスで培ったわかりやすく科学を伝えるスキルや経験と研究室で学んできた学問の接点がまさにこのプロジェクトにあって、私が力を発揮することができればリバネスと植物病院の両方が前に進むのではないか、そして何より私自身が成長することができるのではないか、そう感じた。そこで、丸や池上、難波先生と話し合いを重ね、リバネスと東大の双方のプロジェクトに関わることになった。

 そうして私の博士取得後1年目は、普段は大学の研究室に居ながら、リバネスとしても産学連携プロジェクトを仕掛けるという、二足の草鞋を履く生活になった。今でも、このときの繋がりを起点としたいくつものプロジェクトが走っている。リバネスでは東大の特許を生かした植物病診断キットを開発し、私自身は植物医科学に関する講義を法政大学で担当し、後学の育成にも関わらせていただいている。

 プライベートでは、この1年の間に結婚して、すぐに子どもが生まれた。経済的にはかなり厳しい時期だったけれど、新しいステージに進み視野がぐんぐん広がっていくのを感じて本当に幸せだった。研究室からの帰り道、夜空を見上げながら本郷キャンパスの中を歩くのが日課だった。

5.リバネスにフルコミット。周回遅れを取り戻せ

 スタッフとして研究室運営に関わることは学ぶことの連続だった。博士課程のころに見えていた研究室は、ほんの一部だけだったことを知った。一方で、リバネスで仲間たちが仕掛けるスピード感のある仕事を見ていて居ても立ってもいられない気持ちになった。成長するベンチャー企業のビジネスは常に変化している。変化こそが生き残る術であり、成長の元なのだ。自分自身もその場に立って思う存分自分のパッションをぶつけたい、その思いが日増しに強くなり2007年4月、自分の活動の軸足をリバネスへと完全に移した。

 軸足を移した1年目は本当に苦労した。ビジネス経験も少ない中、どうやって自分が価値を発揮できるのかがわからず悩み続けた。大学と産業界を繋ぐ仕掛けを作りたいというパッションは明確だったが、いざ現場に立つと何もできない自分の無力さがとにかく残念だった。ボードメンバーの中で自分のクライアントを持っていなかったのは私くらいだった。結局、積み上げたものがないのは素直に認めるしかなかった。とにかく皆から学ぼう、そして繋がりを作ろう、そう思って最後は腹をくくった。一番大きいビジネス鞄を買ってきて、その鞄に社内にあった資料や作品を入るだけ突っ込んで、片っ端から勉強会や展示会に参加し、ひたすら人に会った。

 ところで、このころ唯一私が力を発揮できたことがある。それは、申請書を書くということだ。大学でいくつもの申請書を書いていた経験がここで生かされた。新しいビジネスモデルを立ち上げると息巻いてジョインしたにもかかわらず、申請書書きをするというのも正直なところ情けなかったのだけれど、そのときは必死だった。このころ、申請し事業を回すというプロセスを繰り返した経験は、今も新しいプロジェクトを仕掛けるときに活かされている。事業の勘所やスケジュールの切り方、お金の計算、プレゼンテーションまで、仕事の進め方のエッセンスの多くを私はここで学ぶことができた。手とり足とり教えてくれるような先輩がいないベンチャーの中で、自分を助け一歩前進させたのは研究室で培った書類書きのスキルだった。

 いま、リバネスには50名の仲間がいる。「科学技術の発展と地球貢献を実現する」という理念の下に、熱を持った博士たちがぞくぞくと集まってきている。次世代の研究者育成を行なう「教育応援プロジェクト」、研究費や人材育成を通じてオープンイノベーションを加速する「研究応援プロジェクト」、そして起業家の発掘・育成を通じて新たな事業創出を目指す「創業応援プロジェクト」を中心に、科学・技術と社会をつなぐ数々のプロジェクトを仕掛けている。

私自身もこの組織の代表となり奔走する日々であるが、博士が集まる会社を経営する者として感じていることがある。それは、博士は間違いなく世の中で活躍できるということだ。博士は人と違うフィロソフィーをもって、周りに反対されてもひるむことなくそれに向かって突き進むことができる。それは、まさにベンチャー起業や新規事業を立ち上げるときに不可欠なことだ。新しいチャレンジの多くは失敗に終わる。けれども、そのような失敗から次の仮説を生み出す力をまた、博士は持っている。新しいコトを起こすのは博士たちなのだ。リバネスは、社員の半分以上が新卒で入ってきた博士たちだ。ビジネス経験はなくとも、独自に仮説を立てる力、失敗から学ぶ力を活かして次々と新しいチャレンジを続けている。ところで、2人の代表を含め植物の研究をしてきたメンバーも13人もいる。この分野で新しいコトを仕掛けたい、とこの機会に改めて感じた次第である。

 今、自分はビジネスの世界にいるが、その中で大切にしている考え方の多くは、植物を研究する中で恩師や先輩方から学んだものである。リバネスの理念を広げることが恩返しになると信じて、精一杯進もうと思う。


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