平瀬作五郎のイチョウ精子発見の記事は、明治29年(1896年)10月20日に発行された植物学雑誌第116号に載っている。記事の内容は、学会例会での報告の要旨という形である。すなわち、「この四月の例会で報告したが、イチョウの花粉は、雌の木で成長し、運動する精子(精虫)を形成するというものであるが、前回は花粉管の中でしか見ることができなかったが、本年9月9日には精子が泳ぎだすことを見ることができ、精子であることを確証できた」というものである。
これが、なぜ大発見なのだろうか。まず第一に、イチョウは裸子植物であるが、裸子植物・被子植物では通例精子を作ることはないので、それより下等な植物の形質を持っているという点である。すなわち、海で始まった生物が精子を作るのは、下等生物では普通であるが、陸上での繁栄を始めた高等植物ではそのような性質を失っているので、イチョウではあたかも生命が始まった海の記憶を留めているということができる。第二点は、当時裸子植物の受精の研究は研究の最先端であり、当時の世界的権威であるE. シュトラスブルガー(ボン大学、ドイツ)は、受精の詳細を多くの裸子植物で明らかにした。その彼は、イチョウの花粉が雌の木で成長する様子も観察していたが、精子の発見には至らなかったのである。それと、第三点として、当時の研究の現状が挙げられよう。東京大学が創立されたのは明治10年4月で、研究・教育体制の確立は急ピッチで行なわれていた。当初は、招聘された外人教授らによりその体制の基礎が作られ、やがて外国へ送っていた留学生が戻り、日本人の教授が就任し始めていた。なお、そのレベルは相当に高かったものの、その内容は西欧に追いつけという姿勢であったからである。ちなみに植物学の初代教授は矢田部良吉である。そういった意味で日本人による世界的な大発見の第一号であると云えるからである。このような点から、その内容が植物学雑誌に掲載されたことは、大変重要であると言わざるを得ない。
そして、この内容は、短報としてドイツの速報誌Botanisches Centralblatt(植物学中央雑誌)へ送られたが、受理されたのは1896年10月であり、掲載されたのは、1897年の2/3号である。さらに、その詳細は、1898年の東京大学理学部紀要にフランス語の論文として掲載された(受理は1897年3月21日)。なお、1896年の発見は、直ぐには信じられず、1897年アメリカでH.J. Webberがソテツの仲間のZamiaで精子を見てから、平瀬の発見は本当であると信じられるようになった。
なお、平瀬に関連するより詳細な記事はこちらの記事を参照されたい。
ソテツの精子の発見
平瀬作五郎のイチョウ精子発見記事の載った次の号である、明治29年11月20日刊行の植物学雑誌第119号に池野成一郎のソテツ精子発見の記事が載っている。その内容はおよそ次のようなものである。「かねてより、ソテツでの受精を研究していたが、平瀬氏が前号でイチョウについて述べたように、ソテツでも精子が形成されることを確認した。但し、材料を鹿児島にて入手したため資料は全て固定資料ゆえ顕微鏡下での運動は報告できないが、平瀬氏の標本と比較したところ、精子(精虫)の形状はイチョウとほぼ同様であった」。そして、その速報はやはり1897年のBotanishes Centralblattの第1号に報告され、その詳細は東京大学理学部紀要に独文で掲載された。なお、英独仏文に堪能な池野が、平瀬の欧文論文作成を手伝ったということである。また、池野・平瀬の共著で今日まで続くAnnals of Botanyにイチョウとソテツの精子発見の紹介記事を載せている。そして、両者は最初の学士院恩賜賞を受けるのであるが、初め池野のみ推薦されたが、平瀬と一緒なら受けてもよい、ということで両者の受賞が決まったということである。
池野に関連するより詳細な記事はこちらの記事を参照されたい。
(文: 東京大学理学系研究科・長田敏行)